(まとめ06)静岡市吉祥寺の中野住職が語る「仏事のこぼれ100話」--6--お寺徒然-寄付,付け届け,檀家-
静岡市吉祥寺(http://www.kitijyouji.jp/)の中野住職が語る「仏事のこぼれ100話」です。
富士山の見えるお墓,樹木葬,海洋葬,葬式,守り本尊,戒名,法要,初七日,四十九日,初盆,新盆,供養,納骨,お墓,一周忌,三回忌など、
身近な仏事から役立つこぼれ話を選んでみました。
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6お寺徒然-寄付,付け届け,檀家-
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お寺徒然 1お寺さんもなかなか・・・! < 組 織 Ⅰ>
これから書くことは「表現の自由」には触らないでしょうが、チョっと書いちゃってもいいかな?と迷う気持ちもありました。しかし「情報の開示」が進む今日ですし、本当のことはお知りになっておくべきかと思いまして書いてみました。
坊さん・お寺と言いますが、一つ々が独立して競争状態にあり切磋琢磨しているのではありません。どこも必ず『○○宗』という大きな組織の末端に所属しています。同時にその末端の各寺院が地域ごとに町内会のようにグループ分けされます。行政や企業となんらそのシステムに変わりはありませんが、加えて葬儀での手伝いによって経済的に結ばれていますから関係は非常に強固となり、地区の大きい寺を中心にファミリーを形成します。大きな寺とは檀家が多く『葬儀の件数が多い=収入が多い』のであり、周りの寺院を葬儀に『呼んであげる』というチカラを持つことになります。
そして、俗に言う「価格協定・カルテル」とは違いますが、『お布施や寄付や付け届け』の、地域単位での 『なんとなく統一化』 が生れますから「高値方向」に安定します。
それに対して値段交渉をしてくる檀家さんもほとんどいませんが、もしクレームがあったら 『周りがそうだから、ウチの寺も合わせているだけですヨ、試しに聞いてみたら・・・』 と言えば逃げ道ができるわけです。これは大変居心地のいい仕組みですが、ついつい安定に胡坐をかいてしまい主役であるはずの檀家さんを見下すようになる傾向が発生しやすいことが問題でしょう・・・。
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お寺徒然 2お寺さんもなかなか・・・! < 組 織 Ⅱ>
お寺の組織は、言い換えれば、檀家の多い寺=経済力=発言決定権力 を頂点に
ピラミッド型の命令系統が完成されていると言えましょう。また、もう一つここに付加されるのが 『格式』 です。よく 「ウチの寺は本山直系の○○寺が本寺で開山は△△禅師様だよ」 という自慢話を聞きませんか?
お寺は経済力のほかに大学閥のような、それよりもっと強い、師匠から弟子に伝わった流れという親子のような関係でも繋がっていますから複雑です。 更に明治・大正以来お寺同士の縁戚関係さえ発生していることが多々ありますからもっと強固に連携しているといえます。
こう見て参りますとお寺が期待されていた『神聖とか聖職とか聖域』という衣の中身は、きれいな言葉に意味されるそのままではなくて、きちんと定義され、整然と理論化された教義をベースにして、縦の命令系統+経済力+地域の結合+格式+師弟関係+縁戚関係という、全く身動きの取れない、組織の為のシステムに組み込まれた部品であることが解ります。
これがかつての『葬式坊主』と揶揄された大元であり、独りよがりの布教に酔ってしまい、時代の要求が見えなくなる原因となっているのです。
このような内部の実態は皆様もうすうすはご存知なのですが、あえて見てみぬ振りをしていらしたと思います。ですがもうそれでは収まりきらない時代に来ていると思われます。なんとなく今までがそうだったからではなく、ご自身やご家族で納得し、ご自分たちにとって最も合った姿を見つけ出す時ではないかと思うのです。
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お寺徒然 3 お寺さんもなかなか・・・! <言いたくても言えない>
前回のようなことを言うと、仏教会からはこっぴどく叱られてしまうでしょうが、自浄作用がなくなったらそこでおしまいですからもう少し言いましょう。
このような本山を頂点に組織化されたピラミッド型寺院管理というお寺の組織の発生は、江戸時代に行政の管理監督の為に、生み出された『檀家制度』から始まります。 本当によくできた完璧なシステムですし、 一般社会となんら変わりませんが、それによって生ずるマイナスも同じように発生してしまいます。
マイナス面とは
▽ 組織の自己防衛傾向の拡大と、保守化、
▽ 画一化と硬直化、
▽ 権益確保とお客様目線の欠落化、に直面することになります。
斯様な状況を真面目に言えば、いくら現場で悪戦苦闘しても頭の上にある『法要に呼んでくれる大きい寺』の手前、何にも言えないし、出来ないのです。
皮肉に言うと、長いものに巻かれていればなんとなく楽に生きてゆけますからこれでいいんです。
そうなんです「良い 悪い」ではなくて、がんじがらめに縛られて身動きの取れないのが現状なのです。そして結局しわ寄せは檀家に向き、「お客様=檀家や信徒」は蚊帳の外となってしまうのです。このままでイイのでしょうか?良いわけはありません、そこで生まれたのがこのホームページであり企画・活動なのです。
どうぞ宜しく・・・。
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お寺徒然 4 お寺さんもなかなか・・・! <お布施とお経料Ⅰ>
皆さんに「お布施とお経料」どちらが正しいですか?と聞けば、ほとんどの方が「お布施」でしょ?とお答えになると思います。私の若かりし頃の話ですが、これがあったのです。
ある時法事に行って差し出された袋の上書きを見ると「お経料」と書いてありました。そのときに浮かんだ第一のイメージは「おれは機械か?テープレコーダーじゃないぞ!」という感覚でした。次に顔を出したものは「教義と建前」です。その両方が混ざり合って「すいませんが、これからは『お布施』とお書きください」とキツーく言っていました。今思い出しますとゾっといたします。謝りきれません!
施主家では、故人の供養をして気持ちも穏やかになり、ほっとしている場面です。その仕上げというべきところで、若造の私に頭から水を掛けられたようなものでした。
親戚関係も居ます。 さぞ切なかったことでしょう・・・・。
もし『布施』にこだわるなら、その原点に立ち返らねばなりません。原点とは何か?それは物やお金の多い少ないなんてコトは論外でして、『施す側 と 施される側』 という思い・気持ちを昇華した世界を目指す行為が『布施』の本質なのです。詰まるところ『ありがとう』でも良いことになってしまうのです!!
「有難う」はひょうきんな言い方でしたが、『布施』という『行』の本質は日常の経済活動とは全く異質な精神世界なのであり、両方は全く相容れないのです・・・・・!
当然、信士だから安い、居士だから高いという世界はありえないのです。ところが現実にはその違いは無視されて『布施=経済世界=生活の糧』と混同されてしまいましたのでおかしくなっているのですね。
聖なる行為であろうと無かろうと、布施の本質を離れてしまったものなら、変に格好をつけずに『お経料です、儀式執行料です、安心料です』と言ったほうが余程いいのでは・・・・・・・?
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お寺徒然 5 お寺さんもなかなか・・・! <お布施とお経料Ⅱ>
住職というのは、宗教法人の社長=経営者ですから、売り上げを頑張る使命を負っています!そして檀家さんや信者さんとの応対は営業そのもののはずで、これが実態ですね。
あえて言うならば 『安心をお受け取り頂き、その対価をいただく』 というサービス業に限りなく近いのです。
ところが坊さんたちには 「経営者 とか 営業」 という意識は全く欠落していて、どこまでも『尊い布教行為』なものですから、矛盾から逃れられないのですね。
仏教の 布施 は一切の私有物を受け付けませんから、社会の経済原理とは水と油です。それなのにお寺という容れ物も、その番人である住職もどっぷりと経済社会の一員です。このギャップを、見てみぬ振りをしてきてしまったから私ら坊さんは「お経料」にムカつく訳なんですね。
どうでしょう、電話もパソコンもお金がなければうごきません、いい意味で 開き直り むしろ現実をしっかり見て受け入れ、本当のことを伝えて選んでもらったらいいのでは?と思うのです。
例えば、「戒名には上も下もありあません。しかし社会のしがらみや残されたご家族の思いが強く、今までのような『上』のクラスがご入用なら高額になりますよ、しかし供養の本質に関係ないですよ」と・・・。
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お寺徒然 6 お寺さんもなかなか・・・! <お布施とお経料 Ⅲ>
前回では、最後にきれいなことを並べましたが、現実は多くの皆様の思いの反映が、今までの『布施の本質と経済活動の矛盾』をあいまいにして来たとも言えるかもしれません。
人間社会はご存知のようにきれいごとだけでは済みません。全員が約束を守れるわけではないし、解釈にも差があるし、許容範囲もあいまいです。
突き詰めれば、正しい金儲けも悪い経済活動も共にグレーゾーンを抱えています。両者を明快に分けられる基準を作り出すことなど不可能と思われます。さらに、私どもはいい意味での「尊厳・プライド」と表裏一体で「虚栄心とおごり」を抱えています。そして、この周りには少々ゆがんだ社会の監視の目もありまして(特に田舎では・・・)、『あそこは代々このレベルを維持しないといけない、だけどオレたちの家は昔から下だからナア・・』と言うような暗黙のプレッシャーです。
ある人が「おっさん(お坊さん)、ソリャなあ えばり賃(威張り賃)だわさ」と言っていたことを思い出します。
そのようなヒトのしがらみ(業)こそが、『布施の本質と経済活動の矛盾』を隠し、坊さん達を骨抜きにもしてきたのでしょう・・・・。
しかし少なくても「お釈迦さん」を引っ張り出してきて生きさせてもらっているなら、坊さんの方から しがらみ を少しでもイイ方向にもってゆく動きをしたいものですね・・・。
及ばずながらこのHPが少しでもお役に立てればと思っております。
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お寺徒然 7 お寺さんもなかなか・・・! <お布施とお経料 Ⅳ>
お布施とお経料のおしまいに・・・。
托鉢(たくはつ)と言いう言葉をご存知かと思いますが、ご覧になる機会は少ないのではないでしょうか?系統としましては「禅宗」が行うことが多いようですね。
饅頭笠(網代笠)をかぶり、黒い衣をまとって鈴を鳴らしながら一軒々お経を唱えつつ廻ります。すると、手に持った入れ物にお金やお米を「布施・喜捨」していただけるのです。
了寛さんが かくれんぼ して眠ってしまう話がありますが、これも「托鉢」の途中の出来事なんですね。
かつては雲水さんが毎日交代で歩くことが当たり前だったようですが、今では形だけになってしまいまして、年間行事として何回か行う程度になってしまいました。
個人的なことですが、20代の頃の雲水時代の托鉢で、足袋を履いてはいましたが慣れない草鞋の紐がすれて痛いし、足の指も千切れるほど冷たかった12月のことが思い出されます。そして今回托鉢のことを書いた訳は次の話を読んでいただきたかったからです。
ある修行道場で定例の托鉢が行われたある日、若い雲水に混じって参加した老師(雲水の教授のような方)の持つ鉢に「お坊さんこれどうぞ!」と言って、ままごとに熱中していた子供が泥の団子と葉っぱを入れてくれました。老師は何の迷いを示すことなく子供の背丈に合わせて膝をこごめて鉢を差し出し、きちんとお経を唱えて有難く歩いて行かれたのです。
これこそが『布施』の原点ではないのでしょうか?老師の「つめの垢を」私ども坊さん連中はお分けいただかねばいけませんね・・・。
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お寺徒然 8 寄付や付け届け 一
これもお寺とのお付き合いの中で大いに問題になっているものです。
先ず 寄付 という言葉の意味ですが、辞書的には 「公共事業や寺社などに金品を出すこと」 です。会費と違って元来は義務ではありません。 ところが、何時の間にか 『○○寺位牌堂改築寄付』 というような帳面が廻ってきて 奉加帳の一ページには 『総代代表○○ 金 100万円』 と記入された後へ記帳するようになっていますからたまったものではありません。 その上、帳面を持って回る各地区の世話人はごく当たり前のように「お宅は位階が上座だから、35万で頼むよ」と決めてかかります、ウンもスンもありません。断れば地域での暮らしやお寺への出入りなどにギスギスしたものが生まれるような気配を臭わせていますから、泣き寝入りするしかありません。そして多くの場合支払い方法は、積み立てや3年分割などのようです。
いずれにしましても、ちゃんと話し合いが持たれ、本当に必要なものならまた話は違ってくるでしょうが、「本当に必要」の部分が、住職+総代世話人グループと、一般檀家とはほとんどの場合食い違っているのですから、陰で不平不満が募るのもしょうがないことです。
全ては 『お寺ってなに?』 という原点が忘れ去られて、主人公は一般檀家なんだ!ということを気づくことができない体制・体質であることに原因しているのですね。
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お寺徒然 9 寄付や付け届け ニ
寄付に関してはこんな実例もありました。
△ 耐震化のために庫裏(くり・本堂に隣接する居住区)の補強工事をしますから宜しく・・・。として始まったのですが、蓋を開けたら「庫裏の立替」になっていてあきれた、というもの。
△ 同じように、庫裏の一部を改装して 「法事の後の会食等に使う会場を造る」はずが、庫裏の立替だった!
△ 本堂立替や位牌堂改築ということはよく行われますが、終わって落慶披露に出てみると、なぜか立派な庭木や置石や灯篭が境内地に鎮座していた。しかも半端な代物ではなかった。 会計はどうなっているのか?
似たような例はきりがないほどですが、結局 は『寺院の私物化・公私混同』 と 『見てくれを立派にして虚栄心を満足させている』 住職と総代世話人が愚かなんですね。日ごろは、社長や会長が会社を私物化してニュースになりますが、宗教法人も全く同じことです。檀家の弱みに付け込みますから、もっとタチが悪いかも知れませんね・・・。
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お寺徒然 10 寄付や付け届け 三
『付け届け』も余りいい意味とはいえませんが(意味は義理で届ける贈り物)、長年の慣習なんでしょうか、盆暮れの年2回ほど「金一封」をお寺に届けることが行われます。金額や強制の度合いなどは地域や各寺院によって多少の違いはあるようですが、この時も 戒名 の時に出ました 位階 によってランク付けがされています。 静岡でのことですがすごい話があるんですよ。
今まではお婆さんが主に関わっていたお寺の付き合いでしたが、代替わりしたので嫁いできた若い奥さんが始めてお寺に出向きました。 多少の緊張となんとなく敷居が高いような不安やらを抱えて出かけるわけです。
応対に出たお庫裏さん(又はお大黒さんともいいますが、お寺の奥さんのこと)にその場で封筒の中身を改められた上、「おばあちゃんに聞いてなかった?お宅は居士だから、5000円に包み直して」といわれたのです。
ショックだったと後で話していましたが、お寺に出向く者は、確かに「義理」もありますが、『先祖が世話になってるから・・・』という 供養 の思いを持って出かけるわけです。受け取る寺院側では『ご丁寧によくお出かけです、本堂に上がってお参りしていってくださいませ、後で一服いかがですか?』という対応をしなくてはおかしいんじゃないでしょうかねえ!
愚かです、何にも見えなくなってしまいましたね・・・・・。
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お寺徒然 11 寄付や付け届け 四
ところで田舎の山寺であります吉祥寺はどうなんでしょうか・・・・?
先代から(昭和26年より)寄付を募ったことといえば、茅葺(かやぶき)屋根を瓦に葺き替えた時以外には無いようです。 なんといってもお茶と椎茸が主体のところですし、皆さん地道な暮らしをしている方が多いのですから、住職としてはなるべく負担をかけないように動いて当然でしょう。
また、この山寺に町のお寺のような立派な塀をめぐらし、豪勢な客殿を用意してみても映りませんよ。
するとよくしたもので、村の方々は逆に心配して陰にひなたに精一杯のことを物心両面で勤めてくださいます。勿体ないことと、先代から肝に銘じております・・・・・。 もちろん中には寄付を募って他所のお寺のように開山堂や位牌堂を造ろうとか、晋山式という大きな儀式をして資格を取り『赤い緋の衣』を着てもらいたいと言う人もいますが、本当に今もこの先もどうしても必要なものなのか?と考えるとNOといわざるを得ません。要はこの寺の置かれている・担っているものは何だろう?何ができるのだろう?というところでしょうか・・・。
見てくれではなくて、出発点は『オラ達の先祖が休んでいる寺だから、みんなで・・・・』という思いが自然にかもし出されなくては信頼も何も生まれませんし、必要な存在にもなれないかと思えます・・・。これは 信仰・信心 以前の問題ですねエ・・・・。
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お寺徒然 12 寄付や付け届け 五 まとめ
寄付や付け届けもそうですが、結局は、お寺と檀家の間の意識の差 が問題を起こしているといえましょうか。 箇条書きにすると
△ 主人公は 檀家 なのに、お寺や住職が偉いと思い違いをしていること。ひいては住職の連れ添いまでが「住職代理」のつもりになって上からものを言ってしまう。
△ ご先祖の供養を させてもらっている のではなく『してやっていると』と思い込んでいるお寺と住職とお庫裏さんの存在。
△ 住職と一部の檀家が陥っている『外見を立派にして満足しようとする』考え違い、になると思われます。
お寺と檀家といっても、詰まるところ 住職やお庫裏さんという生身の人間と檀家 という人と人の関係です。しかもそこには 供養 という ココロ のグレーゾーンが絡んでいます。
言葉一つ・態度一つで、誤解も不快も生まれますし、二度と修復できないような精神的ショックすら起こってしまいます。 しかし、お墓を 墓質(人質でなく・・ハカジチ) にとられている檀家さんは出るに出られません。恐ろしいことです。 ここらで、お寺って? 供養って? 戒名って? 本当はなんなのサ・・・・・!!
と本当に真剣に向き合って考えなければならないと思いますよ。 いかがでしょう?
※Assist by 株式会社 日本情報処理 & 池谷和久税理士事務所 URL http://www.money.gr.jp/ http://zei.aoi-ku.com/
