(まとめ05)静岡市吉祥寺の中野住職が語る「仏事のこぼれ100話」--5--いろんな供養の形が許される訳とは?
静岡市吉祥寺(http://www.kitijyouji.jp/)の中野住職が語る「仏事のこぼれ100話」です。
富士山の見えるお墓,樹木葬,海洋葬,葬式,守り本尊,戒名,法要,初七日,四十九日,初盆,新盆,供養,納骨,お墓,一周忌,三回忌など、
身近な仏事から役立つこぼれ話を選んでみました。
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5いろんな供養の形が許される訳とは?
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いろんな供養の形が許される訳とは 一 供養って?
静岡 吉祥寺 の活動の中心には、従来のようなお仕着せの『供養』に縛られていては、激変する社会の要望に答えられない!という思いがございます。 そこで先ずはその 供養 を考えてみましょう。
さて、一口に言って 供養って一体なんでしょう? お経を読んでお墓参りをすることだけが 供養 でそれ以外は許されないのでしょうか?先ずは身近な公営墓地や公的霊園を思い出してください。静岡なら沼上や愛宕霊園、静岡霊苑、清水の横砂霊園や興津の霊園であり、志太地区なら藤枝霊園です。
いろんな墓石がありますね。 中でも棹石の頭が四角錘で、表面に 奥津城(オクツキ) と彫られた墓石をご覧になられたでしょうか?(又は 奥都城・奥城)数は少ないですが 神道 の墓所なんです。
もし、墓参りと線香とお経だけが 供養 なら、このような方々のご先祖は・故人は一体どうなってしまうのでしょうか? このことからだけでも、供養という本体はいろんな表現が可能だということが理解できますよね。『供養』には二つの顔があります。
一つは純粋に仏式を意味する顔。 お寺~墓地~檀家~読経・線香・塔婆 の世界です。
二つ目は、供養というコトバに意味される『先祖や故人よ安らかなれ・・・』という、ヒトの止むにやまれぬ心の叫びでありましょうか。
この二つ目の意味するところこそが普通の日本人の感覚ではないかと思われますし、翻訳すれば全世界に通ずる人間の想いであると確信いたします・・・。従ってこの『心の叫び』こそが供養の本体であり、決してお経と塔婆とお墓だけに縛られるものでは無くて、 供養 とは定形の無い、いろんな表現が可能だということがご理解いただけると存じます。
5-NO2-58
いろんな供養の形が許される訳とは 二 お経と供養
5-NO1-57に続き日本中のお寺さんには嫌われますが、皆さんが聞くに聞けなかったことを申しましょう。それは!!お釈迦さんの時代には 読経もお墓(今のようなカロウト式)も塔婆も無かった!!ということです。
チョっと考えれば誰でもわかることですね。お経はお釈迦さんの没後すぐに会議がもたれ「生前にはこう言われました」という、まとめが行われ、その約400年後、今の読経の元となる経典ができました。
しかもこの頃までは全て『暗記』です!口から口へと伝えていたのです!(正確さは失われます)そしてお気づきのように、新たな経典は当然お釈迦さんが直接語った言葉じゃありません。しかし 「お釈迦さんが今話されたらこういう内容に違いない」 という見地から製作されています。つまり、100人いれば100通りの お経 が存在可能だということなのです!!大切なことはその お経 の文字に『意味される』真意をつかむことなのですよね・・・。
ヤレ 々 えらいことになりました。 一体この文章の先には何が待っているんでしょう?ご安心ください、こう考えれば落ち着くんじゃないでしょうか?
一人々が抱える 『心の叫び』 を、それぞれが一番 『納得と安心』 できる表現として、読経を選ぶか、他の儀式を選ぶか、全く宗教儀礼を離れた方法を選ぶかということなんだと・・・・。
宜しいですか、『お経を読まなければ成仏できない』のではありません!『お経を読むことも供養という果てしの無い器のごく一部』だということなのです!
お釈迦様の教えがそんな『読むor読まない』というようなちっぽけなものであるわけが無いじゃないですか・・・。要はあなたが『後ろ髪引かれないような方向』を選び取って歩かれることかと思いますよ・・・・。
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いろんな供養の形が許される訳とは 三 供養とお経のまとめ
お経を読まなければ 供養 ができない!のではなくて、 お経を読むことも 供養 という果てしの無い器の一部なんですよ! これが まとめ となります・・・・・。
このようなことはいまだかつて 住職 という立場の者から発信されたことはありません。なぜなら 死活問題 になってくるからですし、その前に余りにも当たり前すぎて考えに浮かぶことさえあり得ませんでした。しかし地球規模の問題が次々に勃発し、未だに無くならない宗教がらみの戦争を含めた悲劇が止まない今日、原点に立ち戻らなければ相変わらずの堂々巡りから抜け出せないと思うのです。小さい声で言いますが、私はこんな世界規模の閉塞状況を何とかできるものは 般若心経の世界観 しかないのでは?と感じているのです・・・。一人で何ができるものか!とあきらめるのじゃなくて、何かをやり始めることでなければと思っていますので、『お経を読んで塔婆を建てて供養しなければ悪いことが起こる』という暗黙のプレッシャーを隠し持って武器とし、人の弱みを穿って稼いでだけいたのではそれこそバチが当たりますよ!
私たち坊さんは今こそ自ら本源と向い合い、自らに問い直さなければならないと思われます、『供養とは?お経とは?宗教とは?幸せって?』と・・・・・。
また坊さんでなくても、ご自身と故人やご先祖との関わりを、前例に倣ったなおざり型ではなく自ら選び取った悔いの無い生き方としてお考えいただく時期が来たのだと思います。静岡 吉祥寺 のHPを入り口としてご利用いただき、ぜひ安心の日暮をなさって下さいませ。
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いろんな供養の形が許される訳とは 四 檀家のこと イ
次に 檀家 というものをおさらいしましょう。
江戸時代にキリスト教が禁じられて以来、必ずどこかのお寺に所属して 檀家 になっていなければなりませんでした。 そこから現在の 『お寺=お墓=檀家』 というシステムが生まれてきたのです。ということは、それ以前は お寺に所属するしない を含めて自由に信仰を選択できたといえます。振り返れば聖徳太子以来、庶民にとっての仏教はいつでも二つの顔がありました。
支配者というセレブ専用のものと、現実の生活苦を癒(いや)してくれるものでした。特に鎌倉時代以後はその動きが顕著ですね。 当然仏教が我が国の隅々まで浸透した多きな原動力は各地を遊行して歩いた歴史には名も残らない人々でした。
そして、遊行僧は各地で日本人の『祖先崇拝や荒み霊(あらみたま)への畏怖』などの思いを上手に融合しながら、ご祈祷/供養/葬儀/埋葬 等を通じて『日本的仏教』という形が少しずつ整えられていったものでしょう。 従ってそのような下地の上に江戸時代の『檀家制度』は馴染んでゆけたといえましょう。
勿論、仏事を営むのは無料ではありえません、経費の負担が発生しますから、一般庶民が『墓地に埋葬』するようになってゆくのは、江戸時代からということになります。 つまり江戸幕府の施政上の理由から、地域の寺が監督機関となることによって、寺と地域の各家は相互に依存する体制となったのです。
即ち 寺と檀家 です。
寺側は収入の安定化を手に入れ、庶民はその対価として安心と地位の確認を得たのです。
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いろんな供養の形が許される訳とは 五 檀家のこと ロ
檀家の 檀 はダーナという梵語の音訳で(檀那) 布施・施主 という意味です。
「ダンナ いい肴がアリやすよ!」という威勢のいい掛け声や、だんな様/檀那寺というのも同じ根を持ちます。 つまり、本来なら所属する寺院に対してのスポンサー的立場を表していることになります。 ところが現実は正反対で、スポンサーによってサポートされるはずの寺院の方が強いことはよくご承知の通りです。
原因は お墓 と 供養執行者 という二点をお寺が押さえているからですね。5-NO4-60で 「祖先崇拝や荒み霊への畏怖」と書きましたが、供養という儀式は『あちらの世界』と関わることを意味していますから、非常にグレーゾーンな訳です。 コワイわけですよ・・・。
またお墓は簡単には移動できるものではないですから、寺院や住職関係者とそりが合わなくて、とてもお経や供養を頼みたくない!と思っても、動くにままならないことになります。もし共同墓地だったなら所属寺院の変更もまだ可能でしょうが・・・。
そして「懇(ねんご)ろに、供養いたしましょうね」という言葉に隠された暗黙のプレッシャーはとりもなおさず、『読経しないと悪いコトが・・・・』となっている訳です。檀家制度というものの実際の顔の一つには実はこのような 『墓地使用の許認可権』や『先祖供養をしないと・・・』 という弱みを突いた集金システムという意味があるといえるのです。まあ、バブル前くらいまではなんとなくこれで収まってきたのですが、さすがに昨今では 『近くていいんだが、檀家として取り込まれるとリスクが大きすぎる、子供たちがかわいそう・・』 というようになってきたのです。
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いろんな供養の形が許される訳とは 六 戒名のこと イ
江戸以来の 『檀家制度』 という安定化したシステムによって生活基盤が保障された寺や坊さんの姿勢は大きく変わってゆきます。 江戸以前の庶民に溶け込んでゆく仏教とはまた違った意味での世俗化というか虚飾化でありましょう。 その原因の第一は、戒名の上下に付く 『位階』 によって上中下の差異を設けたことです。これは、本来の仏教とは正反対の 差別と虚栄心 を助長させて行きますが、しかしヒトの本源的な仕組みに直結していますから、日常生活での 「あのウチは資産家だから、あのウチは格式があるから」 という世界と同調して、見事に溶け込みました。
つまり、差異によって寺院は収入を増やし、檀家は地位の確認と娑婆の満足を得ることになったのです。これは寺院にとっては楽ですよ、努力や競争・工夫や開発といったことをしなくたって、奉られ・上座に座ってお布施にありつけるわけですから・・・・。でも、家長制が壊れて核家族化が進み、本家分家が希薄化し一箇所に定住する確率が減ってきた昨今になってようやく、 コレって変じゃないの・・・? という流れができてきました。
△ エ、なんで死んでからも差別があるの・・・?
△ 一番安いのにしてください、エ ダメなんですか・・・?
△ なんで 生前の名前じゃ(俗名)いけないんですか?
という問いにきちんと答えなくてはならない時が来たのですね。
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いろんな供養の形が許される訳とは 七 戒名のこと ロ
ほとんどの場合、亡くなったら戒名を付けなくちゃいけない!というほど戒名は日常に馴染んでいますが、これは大変なことなんです。 なぜなら実は 戒名 はインドにも中国にも無かったのです、日本だけのものといって良いくらいなんですから・・・・。
詳細は煩雑になりますから省略しますが、位牌に書かれる戒名は ○○△△ という四字と、その下につく格差を表す二字の 位階 からできていますが、これは日本だけだったのです。
例 正峰慈徳 信士/上座/居士 というように・・・。
そして一番の誤解はこの『格差文字』も戒名だと思われていることなのです!戒名の本体は○○△△という四字(正峰慈徳)だけなのであり、下の『格差文字』は 『お土産』 みたいなものなのです!宜しいですか、戒名に格差や上下は無いのですよ・・・・・・、しっかりお腹に納めておいて下さい。
もう一つの誤解は、死んでから つける という思い違いです。
元は 坊さんになった時(出家)最初に師僧から貰う名前でして、今後の修行への覚悟と意気込みを意識させる、節目としての意味があるわけです。その後、何年か後にやはり師僧から追加の二字の号をいただいて合計四字となっているのですし、また『生前』に付いている・持っていることが当然なのです・・。
そんなことを踏まえて、坊さんになる儀式に余りこだわらず、出家という枠をゆるくしておおらかに受け取れば、坊さんでなくても人生に新たな意味と生きがいと生き方を見出した方が 『生前戒名』 を持つことはとても意味深いことと言えますよね。
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いろんな供養の形が許される訳とは 八 戒名のこと ハ
わが国に戒名がすんなりと定着してきた理由には、成仏する為の重要な 『呪』 というアイテムなんだという意味と共に、節目・区切り としての意味で 節度や潔さ を尊ぶ日本人の文化があったからでしょう。
また同時に、武道/華道/書道などに象徴される 道 という独特の美意識や考え方の故かと思います。
ただの技術や趣味という次元でなく、内面に深く関わり、人生観や生き様を見出してきたという、感性と美意識であります。同時にそこは 師から弟子 へとコトバを超えて伝わる世界でもあります。かような精神世界は、物理的・情感的・刹那的満足と違い、大変に深い充足感を伴っています。師から認可される証としていただく 号や屋号 はまさしく受け取るヒトの命そのものといえるのです。
人生・生き方そのものの象徴と言ってよいものでしょう。
どうですか?この『号や屋号』に 戒名 と重なるものを感じませんか?たとえ誤解によって 死後の専用のもの とされていても、そこに観たものは 節目と生き様 を読み取り、安らかなれ・・という切なる願いがあったと思われます。戒名に隠されたこのような想いや感性を観る時、ご自分の生き様を今のうちに自らしっかりと『生前戒名』に刻んでみてはいかがでしょう・・・・?
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いろんな供養の形が許される訳とは 九 戒名のこと ニ
△ エ、なんで死んでからも差別があるの・・・?という疑問が5-NO4-60で出て来ましたが、このような不平や疑問に、 正峰慈徳 という仮の戒名を例として考えてみたいと思います。
既に書きましたように、インドにも中国にも今の日本で用いられている形での戒名は無かったこと、また、日本で定着した 正峰慈徳 という四字の純粋な戒名自体には、全く上下も無いし差別もないこと、がはっきりしたと思います。しかし、その本来の自由平等な円卓であるべき世界に、ヒトの性(さが)として忍び込んだものが、この四字の上下に 『お土産』 をつけて『差別化』を計るという方便でした。
例えばお寺を建立するような一番のスポンサーには 院殿号を上に付け、下には大居士を付けるのです。すると 永久院殿 正峰慈徳 大居士 という大層な形が出来上がりまして、寺院の収入は大いに増えますし、大檀家は 『さすが、すごい、エライ、』 と虚栄が満足されることとなります。両方にとって非常に結構なやり取りが出来上がったわけですね。つまり、純粋な 戒名 の本体である 正峰慈徳 が娑婆のしがらみとドッキングしたことによって拡大解釈され、上と下に付いたお土産を含めたものを、『戒名』と言うようになってしまったのです。結果 『死んでからも差別があるの・・・?』という疑問が発生することとなったのです。
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いろんな供養の形が許される訳とは 十 戒名のこと ホ
△ 一番安い戒名にしてください、エ ダメなんですか・・・?という疑問も理解できてきますね。
さっきのように個人でお寺を一ケ寺建立できるような人はごくまれですが、それより小ぶりな支払いなら平気だよ、という方は結構ありまして、まあ¥100万から¥300万くらいが目安になるようですが、院号を付けたいと希望する人がいます。すると 覚雲院 正峰慈徳 居士 というようなものが出来上がり、院号だからエライだろう!と満足するわけです。その次はもう少しランクを下げて居士で頼みたいとなりまして、院の無い 正峰慈徳 居士 となり、その下が 正峰慈徳 上座/正峰慈徳 信士 となって行きます。そして、先祖が 居士 ならズーっと居士であり、上座ならズーっと上座なのです。最低線が現状維持なのです。
しかし逆は大歓迎されまして、信士を上座に格上げすることや、上座を居士に上げることは、『大変良いことをなさいました、さぞお喜びですよ・・・』と住職からお褒めに預かり、たくさんのお布施を払うことになります・・。
かような訳で、位階を下げることは収入減ゆえにダメ!上げることは増加ゆえOK!となるんです。
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いろんな供養の形が許される訳とは 十一 戒名のこと ヘ
しかし皆さん、くれぐれも誤解しないでくださいませ悪口だけを言っているのではありません、むしろこんなからくりも、ある面ヒトらしいともいえるのです。なぜなら、このような差別化が結構機能していたこともまた事実だったのですから・・・・・。
かつての生活は地域で連携した暮らしを余儀なくされ、自分ではどうしようもない位置づけに身をおくしかなかったことも事実でした。したがって一般庶民にとっては、普段は威張っている財産家だから「特別な時や場合」にはお金を出して当たり前、威張り賃だ・・・、という一種のガス抜き的な作用もあったのだと思えます。また、逆に誰が見ても高潔にして身を粉にして地域社会に尽くした方には、お寺の方から金銭を取らずにその方を顕彰する意味合いから 「一代限りの 院号 を贈る」 ことも稀にはありましたから、結構意味もあったと言えるのですね。
ですから住職たるもの「いい戒名をください・・」といってきたら、変に隠したりしないではっきりと毅然として言ってあげればいいんじゃないかと思うのですね、次のように・・・・。
< 金は欲しいけど、しかしコレだけは知ってほしい 『戒名に上下は無いですよ 金銭で売り買いするものでない!金銭の多寡で供養は変化しない』 ということをです。それでも 『欲しい』 のなら300万でも500万でもお出しくださいと・・・・> どうでしょう、すっきりしませんか・・・・?
5-NO12-68
いろんな供養の形が許される訳とは 十ニ 戒名のこと ト
戒名の終わりに △ なんで 生前の名前じゃ(俗名)いけないんですか? を考えてみましょう。
実際に 「戒名にすると別の人になっちゃったような気がするから嫌だ」 といわれたことがあります。今まで見て来たように、戒名にはそれなりの意味も込められていますが、上記のような思いもまたアリですよね。
ひとたび 仏事 から離れると、当然それぞれの信仰や宗派などによる別の表記がはじまりますが、その多くは生前の名前(俗名)を主体として刻まれるようです。 では戒名であれ俗名主体にせよ、この両者に流れる底流は何でしょうか?それは 『区切り・節目・けじめ・畏れ』 に他なりません。どれだけ大切な人であっても、後ろ髪を引かれても、現世を生きてゆかねばならない私達のためには、はっきりとした『一線』が是非とも必要なのではないでしょうか。そして 『戻ってきちゃダメだよ、迷っちゃいけないよ!安らかにね!』 という願いと畏怖の心情の為にも、書き記すということは大変重要な儀礼でもありますね。
そのように考えてきますと、ごく平均的には 戒名を始めとした故人専用の表記 はなさったほうが穏当ではないかという方向がはっきりしてくると思われます。しかし、絶対ではありませんね。 どうしてもお気持ちに添わねば 俗名 そのままで宜しいでしょうね。
儀式に携わるわれわれは 収入の為の戒名 ではなく、その原点を語り、選んでもらうという姿勢を忘れてはならないと思うのです・・・・・・・・・・・。
5-NO13-69
いろんな供養の形が許される訳とは 十三 まとめ
5-NO1-57から書いて参りました『供養にカタチはありません』と申し上げていることが、これでお分かりいただけたのではないでしょうか?しかしこういうお経や供養に関しての話題は、坊さんを前にしては例え言いたくても言葉に出せなかったかと思います。 また何か変だと感じていても自動的に『タブー』という制御がかかって意識に上らせられなかったと想像されます。
そしてこれまでの私たちには 『寺~墓~檀家~寄付・付け届け~供養~お布施』 という以外の選択肢がありませんでした。しかし激変してゆく現代社会の中で、これからどのようにそれぞれの事情に合わせて、安心してゆくのか?を真剣に考え取り組まなければなりません。はっきり言い切れば、儀式も何もかも一切なしで火葬にしました、というケースも当然増えるでしょう。しかしその時、じゃあ ご遺骨 をどうしたいのですか? ということですね。 まさかJRの車内に置いて来れないでしょう!!ということになります。
人は弱いものです、昔も今も 予知・予言・占い・霊界系統・・・の話題は尽きることがありません。思うようにいかない時、病や災難が続く時ついつい頼り縋るのも人情です。そして『ああしなければ悪いことが起こる!こうしななかったから災難が来たんだよ!』という類の話に事欠かないことも事実です。しかし、皆さんは自分の一番大事な子供や孫達に悪さをしたいと思いますか?そんなことはありませんね!
私たち 静岡 吉祥寺 は改めて申します。
供養にカタチはありません!あなたの納得と安心のできる 供養 を探しましょう・・・・ と。
そしていつでもメールやTELでご相談ください・・・・・。きっとお役に立てると思います・・・・・。
※Assist by 株式会社 日本情報処理 & 池谷和久税理士事務所 URL http://www.money.gr.jp/ http://zei.aoi-ku.com/


